私はもともと、社会性がおそらく強くない。みんなが『理解しようとする』努力に違和感があり、どうしても気になってしまう。それは社会では生きづらさでしたが、ゲーム開発においては社会性と関係ない所で面白がるというところが武器になった。
人間の知性と動物的な感覚
私たちが「どんぐり」と一括りに呼ぶものは、実は背の高さも色も一つひとつ異なる。
養老孟司さんは、人間だけが違うものを「同じ」と括る力を持っていると説く。一方で動物たちにとって、右のどんぐりと左のどんぐりは、決して混ざり合うことのない「全く別の物体」。
違うものを同じと捉える人間の知性と、個別の違いをそのまま受け止める動物的な感覚。この認識がおもしろく、表現のヒントがある。
感覚は、社会の中で抑えるものになった。
ちょっとした違いや違和感に無意識で気づいても、無かったこととする。レストランで自分のデザートだけ微妙に小さくてもいちいち言わない。
それが社会で生きる大人の作法。社会生活とは、感覚に気づきながら、反応しないことの積み重ねだ。
それは必要なことだと思う。違いに気づくたびに反応していたら、集団の中では生きていけない。「同じ」として扱う能力が、協調を生む。
でも、協調だけだと危ない。
感覚は、本能。自分が危ないと感知したら、逃げること。キツすぎる要求に「嫌だ」と感じる感覚。耐えてはいけないレベルのものを「大丈夫」と言い続けると、自分の命が危うくなる。感覚を抑えることは、ある一定レベルを超えると、危険を伴う。自分のセーフティネットとして感覚は機能している。
ゲームの中だけ、鋭くなっていい。
感覚ゲーム「1ミリ感覚」などは、本能の、感覚を出すゲーム。微妙な大きさの違いを「同じ」として流さず、「違う」と言っていい場所。触れた感触の微妙な差を、きちんと感じていい場所。社会では疎まれるその鋭さを、ここでは「すごい能力だ」と言えるゲームにしたかった。
違いを見抜いた瞬間の「あ、これだ」という感覚。それは本能に近い。理屈ではなく、体が先に知っている。
専門家とは感覚を数値化できる人。
大人にとっては「違いを無かったこととする能力」はとても大事。しかし、人間の根源的な所では、感覚がベースになっている。ものをつくる人や、専門家と言われる人は感覚を数値に落とし込むことができる。また数値を見る前に、おおよその数値がわかる。例えば、空間デザイナーや建築家は、空間を見て、おおよその部屋の大きさを数値化でき、料理家や食品メーカーの品質管理の人は味見をして、砂糖や塩の割合を把握でき、(おそらく)気象予報士ならば、気温や湿度を数値を見る前に把握できる。そんな「専門家とは感覚を数値化できる人です」という話を大学の建築の勉強の中で聞いた。
年を取ると丸くなる、は五感が鈍くなることかもしれない。
ものをつくる人は、感覚で選び続けている。この色か、あの色か。この長さか、あの長さか。違いが細かく把握でき、その中で適切なものを選択し続ける。
年を取ると丸くなる、とよく言う。経験が増えて寛容になる、という話だが、もしかしたら単純に五感が鈍くなって、違いに気づかなくなっているだけかもしれない。
感覚が鋭いことは、社会では扱いにくい。みんな同じだよと言えたほうが平和で、大人の態度。でも、何かを生み出す時や行動を起こすときには必要。違いに気づき、ベストな選択肢がなくても、それでも「これでいい」と決断して選び続ける。その繰り返しが、行動すること、生み出すことことだと思っている。
「おー、すごい」と言われる場所をつくりたかった。
感覚ゲームで遊ぶとき、鋭い答えを出した人に「すごい!」「よく気づくね!」と言える。社会では疎まれる感覚の鋭さが、ここでは純粋に称えられる。
子どもにとっては、よく見る・よく感じることが、正解に近づくゲーム。受け身だけの消費者とは反対の、行動を起こす人や専門家などの創造的な人間に近づく。大人にとっては、抑えてきた感覚を久しぶりに使う場所になる。
ゲームの中だけでいい。本能に正直な、ちょっと「嫌な奴」になっていい。
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